東雲のブログ

話し相手がいないのここに書きます!

『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方』を読みました

思うところがあって八木仁平さんの『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方』を読みました。
気散じにサクッと読むつもりだったのですが、そうはいかなかった…!
“自分の大事なこと(価値観)”、“得意なこと”、“好きなこと”、を分析し、組み合わせることで「やりたいこと」=自分に適したことを見つけましょう、という本です。
フローチャートや、チェック項目の○の数で「あなたは~タイプです」というふうに診断されるものではなく、自己理解のために用意されている全て(!)の質問に自分の言葉で答える、時間もエネルギーも要するものでした。
紙、ペン、PCを手元に用意しておいた方がいいでしょう。

本の中での例にも使われている野球の話しでこの本の傾向がわかり易く伝わるのではないかと思います。
“好きなこと”である野球に関わる仕事をしようとするとします。
プロの選手になれればそれ以上の話はありません。
なれなかった場合、少しでも野球に関わるものをと考えて、スポーツ用品メーカーの営業職などに就くのはどうなのか?
どんなに野球を愛していても、営業が向いていない=“得意なこと”ではない場合、それは自分に適した仕事といえるのか?ということです。
ここを突破するには、自分の“得意なこと”を把握する必要がありますし、“好きなこと”も、どうして好きなのか、どこが好きなのか、というところまで追求する必要があります。
そういうところまで並走してくれる本なので、気合を入れて走り切れば見えてくるものがあるのではないでしょうか。

私はですね、“好きなこと”を見極めることができず、走り切ることができなかった感じです。私らしい終わり方ですよ。
いや、この“好きなこと”を考えるのは終盤で、あまり時間をかけるつもりの無い中、駆け足でやってきて疲れて集中力もなくなっていたから、とも考えられるぞ!
前、中盤の“大事なこと”“得意なこと”は、そこそこ出来ました。
私の場合ですが、自分の予想と大きく違う、意外な結果が出てきたわけではありませんでしたが、適当に放り込んである頭の中から取り出して丁寧に並べてみるとやっぱり認識が深まります。
そもそも、“大事なこと(価値観)”が、決して無視することのできない最も大事なこととされています。
どんなに順調に見えて、多くの収入を得られる仕事をしていても、この“大事なこと”から外れていては満足ができない。
生きる目的みたいなものです。
4~6個の“大事なこと”に優先順位を付けるのですが、これをただ並べるのではなく、ピラミッド型に積み上げてそれぞれを関連づけます。
これが面白くて、あれも大事これも大事ととっ散らかってフワフワしていたものが、ひとつの指針として立ち上がってきます。
ノンストレスで夢中になって取り組めるものが見つかればベストですが、うまく見つけられなくても何が不満で辛いのかを見つけるツールにはなりそうです。
好きな業界だけど、職種としては得意なことではなかった、ということもあるでしょうし、なにより自分が一番大切にしたいことから離れてしまっている、という状態ではそれは辛いでしょう!何のために生きているのか、ということですものね。
この本の主旨ではありませんが、今の状況を少しでもマシにする一つの方法として使うのもとても有効だと思いました。
本は読み手が完結させるもとのいうことで!
 
意外なものは出てこなかったと書きましたが、質問に「友人などに自分のことを聞く」というのがあり、これはやってないんですよね。

ここで思いがけないものがでてくるということもあるそうなのですが。

そんなこと聞ける友達いないので!
話の中でチラッと「こういうとことあるよね」とか言われたことを参考にはしましたが。
「私が大切にしていることって何だと思う?」とかちょっと恥ずかしい…。

ちなみに、尊敬する人、好きなキャラクターは?という質問があるのですが、私の答えは、ムーミンのミィとエイリアンのリプリーです。
宇宙一孤独でそれでも戦うリプリーが大好きで尊敬しています!

 

 

時間が味方。

 

原因探しも、自分を責めることも、やめましょう、はいやめましたという訳にはいかい。

だいたいが無意識のうちに、気がつけば始まっている。
これに「やるな、止めろ」と迫ると、さらに自分に負担をかけることになる。
叱咤したり戒めたりするのは、する方もされる方も神経に障るし、エネルギーを要する。
するのもされるのも自分となれば、消耗は著しい。
「やめたら?しんどいでしょ?」くらいの軽さで優しく諭し、うやむやにできれば上等。
後は時間がどうにかしてくれる。
眠りから覚めた瞬間、バーン!と打ち鳴らされる絶望の銅鑼も、時間が経てば残響は 弱まり、やがて消えてゆく。
 
朝、只中にいる時は、不安感と恐怖心に耐えることで一杯でここに書いているようなことは考えられないでしょう。
それでも、冷たく強張った体が動かせるようになるまで、なんとか気を紛らわせようとしているはず。
部屋を明るくする、音楽を聴く、スマホをいじる、などをして。
そのひとつとして、こんなことを読めるようにしておくのもいいかと思って書きました!

 

 

自責禁止(朝は特に)

何によらず、自分を責めるのは良くない。
自分を痛めつけ、弱らせることにしかならない。
弱った心は不安と恐怖に過敏になる。
でも責めずにはいられない。毎朝布団の中でわけのわからない不安と恐怖に震え慄く情けない自分を。
清々しく一点の曇りもない朝を向かえている人なんてめったにいないことはわかっている。
嫌なことなんて誰にでもあって、誰だって気力、体力、時間の大部分を苦悩、辛苦に耐えることに使っていることも。
だから、それなのになんだお前は、不安だの怖いだの大袈裟に騒いで。甘えるのもたいがいにしろと、自分を責める。
誰かの悪意のせいではない。
誰にも何もされていない。自分で勝手につらくなっている。
自分の心の弱さが悪い。
自責はそんな自分への厳しさ、鼓舞だと思っている節があるけれど、それは効果がない。
ただでさえ耐えがたい不安感に苛まれているところにさらに上乗せして責め立てたって、弱ってゆく一方なのは身に染みてわかっているはず。
誰も助けてくれないように、誰も叱ったりしないから、止めてしまって大丈夫。
自分を守るために自責をやめる。

 

 

朝の不安に原因なんてないということで。

原因探しはしなくていい、というよりしない方がいい。
不安になるには原因があり、それを解決したり乗り越えたりすることが不安解消の正道。
でも、これは「朝なので」という不条理な理由で勝手にやって来るもの。
まともに相手をしてやることなんかないのだ。
とはいっても、意志とは関係なく勝手にカーソルが頭の中を動いて該当項目を探し回ってしまう。
せめて手綱を引いて、熱心に、前のめりなってやらないように。
原因と見做したものをこの不安感と紐づけしてしまうと、それは「とても嫌なこと」になってしまう。
不安感の強さに比例する強さで嫌なことだと思ってしまう。
そうなると、そのことやそれに近いことを考えただけで、朝に限らずいつでも不安感が起動するようになってしまう。
不安感が恐怖にまで高まると、並みの気力では問題や課題に向き合えない。
ただでさえ気が弱いというのに。
苦痛と支障が生じてしまう。
朝の不安感を日中にまで浸潤させるようなことは避けるように。

 

 

 

残念だけれど、朝はつらいもの。

今朝もつらいですか。
目が覚めると共に絶望に突き落とされるような感じ。
心臓が凍るような恐怖感に飛び起きる。
いつでも思い当たる原因があって、その原因が解決すればこんな朝は終わるはずと思っている。
臆病で、変化が苦手で、決断も遅いし、先延ばし癖もあるからは気掛かりなことは尽きることなく現れる。
こんな朝、いつから始まったのでしょうか。今となってははっきりしない。
波はあるものの、恐らくかれこれ20年近くこの調子でしょう。
苦悩ばかりが原因になるわけではなく、例えば友達と会うなどの楽しみにしていた日でも当日の朝は不安な気持ちになる。
楽しみな日=いつもとは違う日、という緊張が不安を呼ぶ。
ごく稀な、こころがぽっかりと空っぽになっている朝すら、いつもの不安も恐怖もないということに慄いてしまう。
こうなると、原因なんてあってないようなものでしょう。
癖とか習慣に近いものになってしまっている。
きっと終わらせられる。できれば近々に終わらせたい。
ずっと諦めることなくそう望んできたけれど、どうやらそれは難しそうだよ。